渋沢栄一氏ご令孫、鮫島純子さんとジェネラボ
2023年1月19日、渋沢栄一氏の三男、 渋沢正雄氏のご令嬢として生まれた鮫島純子さんが、享年100歳でお亡くなりになりました。渋沢栄一氏といえば、2024年に刷新される一万円札の顔となることが決まっており、昨今ではそのことに関連して、鮫島さんのお姿をメディアで拝見することも増えていました。
ジェネラティビティ研究センターでは、そんな鮫島純子さんにご協力をいただき、2022年6月に当センター編纂で刊行した『50代からの生き方のカタチー妹たちへー』内で、次世代へのメッセージを語っていただきました。生前、鮫島さんとこのようなご縁をいただけたことは、当センターにとってとても意味のあるものでした。
鮫島さんのご冥福をお祈りするとともに、当センター長・井垣伸子より追悼のメッセージをお届けしたいと思います。
鮫島純子さんとの出会い ー井垣伸子センター長より―
先月19日に鮫島純子さんが亡くなられた。享年100歳。
2015年夏、20名程度の東北旅行ツアーで、鮫島さんとご一緒したのが出会いだった。そのツアーでは、青森県の森のイスキアにも滞在予定で、森のイスキアを主宰し、福祉活動家であり教育者として知られていた佐藤初女さんを訪ねることになっていた。
鮫島さん、初女は、どちらも当時93歳。私は、この同い年のお二人がご対面になる瞬間をどうしても写真に収めたいと、このツアーに参加したのだった。写真に収まったお二人は、まるで双子のようにそっくりなお顔だった。
ご対面されたとき、鮫島さんが、2003年の同時期にサンフランシスコでそれぞれ別々に講演をしたお二人の記事が、地元日系新聞の同じ紙面に掲載されていたと、持参していた新聞紙面を初女さんにお見せになった。その記事を覗いてみると、本当に、新聞の同じページに、お二人の記事が並んでいた。まさか、その12年後に、そのお二人が実際にご対面となるとは。鮫島さんがよくその新聞記事を取っておかれて、しかも、そこに初女さんの記事もあることを記憶しておられたものだと、驚いたのを覚えている。
このご対面写真とともに、旅行中の写真をまとめて一冊の写真集にして鮫島さんにお渡ししたところ、大変喜ばれ、わたしもなんだか任務を果たしたような気持ちがした。このご対面の半年後、佐藤初女さんがお亡くなりになったが、鮫島さんはこの8年間ずっとお元気で、本を出されたり、講演活動や取材対応をされたりしていた。
初めて鮫島さんのご自宅に伺ったときは、帰りに近所の明治神宮の中ほどまで、見送っていただいたのだが、明治神宮の入口のところで、神宮警備員のみなさんから一斉に敬礼をされて、びっくりした。考えてみれば、明治神宮は、鮫島さんの祖父にあたる渋沢栄一氏が作ったものであるから、そのような処遇になるのであろう。また、鮫島さんも毎朝6時に明治神宮の中をお散歩する習慣をお持ちだったので、警備員の方々も鮫島さんのことをよくご存知だったはずである。
鮫島さんは、渋沢家の血筋そのままの方で、いつもとても気さくになんでもお話してくださった。渋沢栄一さんのお話や、貴族会のお友達のこと、美智子皇后(当時)のお誕生会に自家用車を運転して皇居に行ったことなど。こちらがお話しすることすべてにも興味をもって、メモを取りながら聞いてくださり、好奇心旺盛な方だった。
昨年、本ジェネラティビティ研究センターが編纂した『50代からの生き方のカタチ』にも、インタビューさせていただいた12名のお一人として参加していただき、次世代への素敵なメッセージを頂いた。感謝の気持ちでいっぱいである。
昨年秋に100歳になられてからも、『100歳の幸せなひとり暮らし〜穏やかな心と健康を保つ100のヒント(光文社)』と『奇跡の対話ー渋沢栄一の孫とアイヌの母神ー(宇梶静江との共著、藤原書店)』の2冊の本を出されている。
鮫島さんの思想はいつも一貫していた。このフレーズをタイトルにした本も、97歳のときに出版されている。それは『なにがあっても、ありがとう(あさ出版)』。鮫島さんは、精神的成長を長年求めて生きてこられた方で、90歳になりようやく自分は、なにがあってもありがとうという悟りの境地に至った、とおっしゃっていた。そう明言なさるお姿は、ただただ神々しかった。
ご冥福をお祈りいたします。
ジェネラティビティ研究センター長 井垣伸子