社会に必要とされる「ななめ」の存在
人は誰もがその人生で、両親や家族を含む様々な「学び」を与えてくれる人に出会います。しかし、みなさんに何かを教えてくれるのは、親や学校の教師たち、習いごと先の指導員やコーチだけとは限りません。誰かとの出会いが、その人の人生の在り方を変えてしまう……そんな人生の「師」、「先輩」のことを、私たちは「ななめの存在」に位置付けて考えています。
人にはみな、次の世代に手渡せるものがある
「ななめの位置」に私たちがいるとき、私たちは多くのことを次の世代に残すことが出来るようになります。次世代に何かを手渡すことは、特別な技術がある人や、親になった人の特権ではありません。
私たちの活動拠点の半分はアメリカにあります。移民の国アメリカは、そもそも国を構成する人が多様ですが、それに加えて昨今では性の多様性も加わり、一昔前の「普通」という概念が成立しなくなっています。そんな環境で日々を生きていると、次世代へのかかわり方の多様性を実感する機会が多くなります。
人は誰もが「物語」を持っています。素晴らしい成功の物語もあれば、とても辛い物語もあるでしょう。しかし、そうしたすべての経験の中に、次世代に伝えられる「何か」があるものです。積極的に関わろうとすれば、みなさんが手渡す小さな「種」が、次世代を担う人たちの人生に思わぬプラスを与えることは十分あり得るのです。
シアトルに日本アートの画廊を開いたアメリカ人男性を例にあげましょう。彼は7歳の時に、母親と一緒にフラリと立ち寄ったアンティーク店で、伊万里焼の壺を磨いている店主と出会いました。店主があまりに一生懸命に壺を磨いている様子を見て、少年だった彼は店主にいろいろと質問したそうです。店主は優しく、焼き物の歴史のことや日本文化の奥深さを少年時代の彼に伝えてくれた—— それが彼の人生を決定づけたのです。
「あの店主との出会いで、僕の人生は決まった。これほどまでに好きなことに出会えたきっかけは、あの日の雑談だったんだ」。思いがけず出会ったアンティーク店の店主が少年だった彼に与えた小さな「種」は、素晴らしい花を咲かせたと言えるでしょう。
子どもたちは先人たちから「未来の種」を、そして大人たちは様々な差異を越えて次世代に何かを紡いでいける「経験」を与え合える「場」を意図的に作れたら、とても素敵なことだと思っています。私たちジェネラボは「ななめ」の存在というこのコンセプトを、多くの方々と分かち合えたらと思っています。